ジョン@営農とサブカルのGOTY
GAME OF THE YEAR
DEATH STRANDING 2: ON THE BEACH
A24賞
INDIKA
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GAME OF THE YEAR
DEATH STRANDING 2: ON THE BEACH
A24賞
INDIKA

GAME OF THE YEAR
DEATH STRANDING 2: ON THE BEACH
<<このレビューには本作のネタバレが含まれています>>

「デスストランディング2 オン・ザ・ビーチ」は、プリミティブな労働の喜びに満ち溢れた「はたらくおじさん」のためのゲームだ。

本作は、デス・ストランディングという現象に覆われた世界で、BTと呼ばれる化け物や武装集団が跋扈する危険地帯を横断し、A地点からB地点へひたすら荷物を運ぶ—という、世にも珍しい「労働」をテーマにしたゲームである。

前作でアメリカ大陸をカイラル通信網でつないだ主人公サム・ポーター・ブリッジズは、ブリッジベイビーだった「ルー」と家族になり、穏やかな日々を送っていた。しかし新たな依頼を受けてルーを家に残しているときに、彼女はサムを狙った襲撃に巻き込まれ命を落とす。深い喪失を抱えたサムは、その傷を癒すためにオーストラリア大陸をつなぐ旅へと向かう——本作はここから幕を開ける。

本作が前作と変わらず面白いのは、資本主義経済と切り離されたプリミティブな労働の喜びがあるからだ。

本作のなかでは徹底して貨幣経済と切り離された世界が描かれている。プレイヤーが受け取るのは「いいね」という承認だけ。それは無限に送り合うことができ、アイテムと交換ができるわけでもない。
だが、だからこそこのゲームは働くことの純粋な喜びを提示できている。自分が作った橋や道路を他のプレイヤーが使い、「いいね」が送られてくる。誰かの役に立っている実感、社会とつながっている感覚——現実世界では貨幣経済やその他の要因によって希薄化してしまったこれらの感情を、本作は変わらず与えてくれる。
前作よりも複雑化したコース、カイラルクリーチャー、道中頻発するトラブル、大配送など配送のバリエーションもかなり増えている。

カール・マルクスの疎外論によれば、資本主義社会では労働者は自分が作った生産物からも、労働行為そのものからも切り離されてしまう。

本作で「なわ」と表現される「つながり」がもたらすのは「疎外」を受けない本来の労働だ。資本主義経済における「生産性」とは無縁のゲームという空間において、何かと格差を感じることも、何かに搾取されることもなく、働くことで、労働が本来持っていたはずの喜びを得ることができる。

昭和・平成を生きてきた「はたらくおじさん」たちが夢中でやっていた労働には、本来、こうした素朴な承認があったのではないだろうか。

小島秀夫監督が60代であることを考えれば当然かもしれないが、本作で描かれるストーリーは昭和・平成の価値観で働いてきた男性たちの物語なのだろう。

象徴的なのは、ルーという存在の扱いだ。ゲーム冒頭で彼女は命を落とし、物語から退場することになる。
輸送船DHVマゼランという「イエ」が常に同行する本作において、ルーを連れて旅をする描き方もあったはずだ。ルーを殺さずとも、彼女をダシにサムがずっと旅をし、仕事の合間にルーの世話をしたり、病気になった彼女のために抗生物質を探したり、そんなふうに描くことだってできたのではないか。もし小島秀夫監督が令和のはたらくおじさんであったなら、そうした「仕事と育児の両立」を描いていたのではないだろうか。

だがルーが育つ過程は意図的に省略されている。これは家族を顧みず仕事に没頭してきた世代が、子どもの成長を日常的に見守る経験を持たなかったことの表れのように思う。彼らにとって子どもの記憶とは、生まれた1年間くらいの乳幼児期と、大きくなって言葉を話せるようになった青年期くらいしか鮮明に残っていないのではないか。

また、本作では妻の不貞という要素も描かれる。サムと対峙することになる謎の男ニール・バナはサムの妻と不貞関係にあったと疑われるシーンが多くある。仕事に没頭して家族をないがしろにし、その家族が不貞に走る——そしてそれを止める資格が自分にあるのか悩む。この描写もまた、働くことにすべてを捧げた世代固有の苦悩のように思う。「課長島耕作」や「黄昏流星群」を彷彿とさせる展開だ。

そんな世代が傷ついた己を癒すのは何かといえば、「仕事」なのだ。
サムの周りにはドールマンやフラジャイルといった、彼をケアしようとする人々がいる。だが彼は、その直接的なケアを受け取ることができない。ひたすら仕事に打ち込み、その過程でようやくケアされていることに気づき、傷と向き合っていく——この構造そのものが、昭和・平成的な働くおじさんの生き方を象徴しているように思う。

令和を生きる働く父親である私にとって、こうした生き方はもはや許されない。家族をケアしながら働き、自分の傷も仕事以外の方法で癒さなければならない時代だ。

本作が描くのは、もう戻れない時代の労働だ。仕事に没頭し、それで心を癒すことが許された時代。家族を顧みなくても、それが「男の生き方」として容認された時代。

私たちはもうその時代には戻れないし、戻るべきでもない。だが、ゲームの中でなら、その時代の労働を追体験できる。それは郷愁かもしれないが、同時に、失われた何かへの哀悼でもあるのだ。
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A24賞
INDIKA
ゲームにもミニシアター系、というかA24みたいな作品があるんだな、と思わせるゲーム。ゲームの仕組みを使った宗教(もっというと信仰、共産主義や自然といった大きなものへの崇拝)批判を体験する作品だ。
プレイヤーは修道院の若いシスター、INDIKAとなり、近代ロシアのような蒸気機関が異様に発達した奇妙な世界を旅することになる。目的は別の修道院の院長宛の手紙を届けること。はじめてのおつかいみたいなものなのだけど、この旅路が、彼女の人生を振り返り、そして信仰がすっかり失せてしまうまでを、ゲームの仕組みを使って語っていく。とてもメタフィクショナルな造りのゲームだ。
インディカの頭のなかにはサタンがいて、インディカを常に誘惑する。だが、その誘惑は、この陰鬱で巨大な世界において、神様を信じるよりも現実的でもっともらしい。この世界では宗教が大きな力を持っている。また、語られることはないが、ステージに現れる巨大な造形物たちはどうしてもソ連や共産主義システムを思わせる。工場のなかで平等に働いているはずなのに、どうして工場ばかりが巨大で立派で、労働者は寄生虫の如くそこに張り付いていかなければならないのか(途中、インディカはマルクスの肖像画にもお祈りをする場面がある。意識的な演出だろう)。
現在のシーンは写実的に威圧的に描かれる一方、インディカがどうして修道院に入ることになったのかは、2Dのピクセルアートのゲームとして描かれる。描写力が上がり、世界の解像度が上がった現在のシーンでは、世界が陰鬱で巨大で、インディカのような若者には到底太刀打ちできないものとして描かれている。ただ、インディカには子どもの頃の名残として、ゲームのように日々の勤めを行い、そのポイントが貯まっていくような感覚が残っている。それだけは、この写実的な世界になっても残っている。
このことがひどく残酷だ、と思う。
INDIKAの旅路は、ボーイミーツガールあり、バイクアクションあり、謎解きありの大冒険なのだけど、これが結末だというのならあんまりなゲームだ。すべては神様の計画のうち? じゃあ、こんな風になったことも計画のうちなのか。ゲームは選択肢も分岐もなく、リニアに進み、まるで運命みたいに自由な意思も関係ないまま、ほんとうに酷いところに堕ちる。最後まで一緒にいてくれるのはサタンだけだ。
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ゲーム概要

『インディカ』は、19世紀末の、宗教的ビジョンと厳しい現実が衝突する異次元空間のロシアを舞台にした、ストーリー重視の三人称視点ゲームである。ゲームでは、若き修道女が悪魔サタンという一風変わった仲間とともに自分探しの旅に出る物語を語っている。
from Steam

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